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慈悲萬行の書から抽象の狭間を考える


「慈悲萬行」

草書は現代では、なかなか読みにくい、読めないかもしれません。
甲骨文字、金文に至ってはなおさらです。
どこまで くずして描くか、描きたい景色と、読めるか読めないか?

わたしは景色を優先してしまう傾向にあります。


慈悲萬行の書から抽象の狭間を考える_f0389753_20192605.jpeg
まだ、これは文字を調べただけの草稿です。
文字ですから、間違っていなければ
調べれば、
読めるわけです。
書は文字を書くという表現で、伝えるということですが、
墨象という抽象的な表現も、書と同様に伝えたい想いから生まれ、
同じ墨を使っても表現方法が異なります。

造形と文字からなる書は、
「芸術にあらず」と言われた頃から
どこに重きをおくか?で
多くの方が試行錯誤してきました。

文字を使わない墨象の方がいっけん簡単なようにおもわれるかもしれませんが、
文字を借りない分、線や墨色や空間を考えそぎ落とし、あるいは積み重ねなければ伝わらないのではないか?自己満足ではないか?と迷うわけです。


今、わたしは、
その両方をどちらかに決めることはできず、
わたし自身の表現を模索しながら、抽象に救われつつ
書と抽象の狭間を行ったり来たりしています。
慈悲萬行の書から抽象の狭間を考える_f0389753_20203713.jpeg
 心象の墨風景がそういった形になりつつあります。

その最初の気づきのような手応えは、この「實」でした。

 音楽(成田千絵さんのチェロとSteve Eto さんの打楽器)と共演する中で、
あの時
描く悦びを感じつつ、
文字の持つ力を借り、千絵さんのメッセージを借りて、
音と交わることだけに集中し、
高揚する気持ちを抑えて、
線と墨色を重視しできた作品です。

おそらく、これからもわたしがやりたい形はこれに近いものをより消化して深めていくことになると思います。

さて、
文字を伝える以上言葉のことも知っておかねばなりませんね。
「慈悲萬行」とは仏語、慈悲の心による一切の行為であり、また
春日大明神様の菩薩号、慈悲萬行菩薩のことであり、
能「野守」に「ありがたや慈悲萬行の春の色 御笠の山にのどかにて」とあります。

菩薩様、ということに少し驚きを感じながら調べますと、

貞慶がもっとも深く信仰したのは春日神であり、藤原氏に出自を有し、藤原氏氏寺興福寺に属した貞慶にとって春日神は氏神であり興福寺法相宗護法神であったわけです。

中世の神仏習合は、「本地垂迹」と呼ばれる神仏同体の思想に特色付けられ

春日神の場合、院政期以来、諸説あるものの、

一宮(鹿島神=タケミガヅチ)は不空羂索観音、

二宮(香取神=フツヌシ)は薬師如来、

三宮(平岡神=アメノコヤネ)は地蔵菩薩、

四宮(姫神=天照大神)は十一面観音と、

概ね本地仏は理解されていたそうです。


特に一宮本地仏の不空羂索観音は、藤原氏の守護仏として著名な興福寺南円堂の本尊です。

その他の宮の本地仏も、興福寺諸堂に祀られる尊格に比定し得るかもしれませんが、

不空羂索の身に纏う鹿皮を春日の神鹿に結び付けることで、両者の本地垂迹関係が説明されることは、諸資料に明らかであり、また堂内の本尊前に春日神(赤童子)が祀られているように、南円堂は他の諸堂よりも春日信仰と密接だ、ということになります。

と。・・・

慈悲萬行の書から抽象の狭間を考える_f0389753_21311516.jpeg

 さてさてこのように知らないことばかりを探って参りますと、どんどん描く時間がなくなるわけですが、

南円堂に納経していることと結びつけて納得してみたりと、興味深いことばかりです。

慈悲萬行の書から抽象の狭間を考える_f0389753_21312768.jpeg

そもそも

書を描くとは、

こういったことが大切なのではないか?と

想いを伝える

自分探しの制作 道なかば・・・







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by sumiasobihito | 2021-06-04 21:32 | Trackback | Comments(0)

生きている墨の美しさ、生かされていることの有難さ。表現者としての記録


by sumiasobihito桃蹊
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