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培ってくれたもの

新入学の季節。
書道店で

数多くの書作展が、卒業制作展、公募展など、中止になったお話を聞きました。現在公募展も中止になっていると聞きます。

私も、三月の個展を中止にいたしましたその一人ではありますが。表具をお願いした書道店さんは、随分心を痛めていらっしゃいましたが、

また、さらにおっしゃいました。

今それぞれが考える時にあるのではないかなあ?と。(学ぶものと、道具を提供するものと、の意味かと思います。)


何を考えるべきなのでしょうね?


今日も書道店には、書を志す新大学生が筆や硯、墨を求めに来ていました。

いきいきと。

まるで数十年前の私のようです。

でも

少し違和感を感じたのは、

さてなんでしょうか?
若さへの違和感でしょうか?いや、そうではありません。
私のこのざわつくものは何でしょう?


世界は広いのになあ、という感じでしょうか?
彼ら彼女らも気づけば、
何を求めるべきかに。・・そうすれば大学生活はきっと豊かな後々の糧になるはずです。


書を選び、志したからといっても、それだけではあかんのや、と今になって感じるのです。音楽も絵画も彫刻も、文学、伝統文化などキリがありませんが、あの頃興味惹かれた寄り道、遠回りとも言える諸々のことは、現在も人とのつながりとともに、自分自身を育ててくださっていると実感するのです。

大学時代に私は高村光太郎の書に出会い、影響を受けましたので、彼の書についての言葉をしるしおきます。
書の究極は人物に帰する、ことに尽きるわけです。



書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。

力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。

惡筆は大抵餘計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。

良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。

書道興つて惡筆天下に滿ちるの觀があるので自戒のため此を書きつけて置く」

(高村光太郎「書について」1939年7月稿)」



さて、その私が感じたあきらかに異なるざわざわするものは、

実は

今生かされている私を生かしているところではないのか?


私の墨色は 不器用な自分が生かしています。

制作している時が最も苦しく楽しい時なのです、そしてとてもその下手くそさを情けなく思いながら、見つける光のようなものに心動かされ続けています。
「手本がなければ作品が書けない」という教え方にも問題があるのかもしれません。遠回りでも時間はかかっても自分で材料を吟味し決めて作り上げるのは楽しいものです。

若い頃という頭でっかちで自覚ある未熟さを顧みず、無謀勝手な私を受け止めていただいたことは有難く、恥じ入るばかりです。
書壇に属しながらもやんわり抵抗していた時、作品を制作することが全てで、公募展には興味がないことも受け入れていただき、臨書に励んだ頃、

いい時を過ごしました。
日中友好団体でしか行けなかった頃の方が、今より身近な学び多き中国にも訳もわからず今井先生に同行できたことは幸せなことです。


そして

まあ

有難いことに、相変わらず

使うてみ、という筆で試され育てていただいていることに感謝して、桜舞う三条通りをあの頃と変わらず、いつまでも見送ってくださる店主に手を振り帰りました。

この真新しい筆で楷書の臨書に向き合います。楷書は自分をけす、無くすのに有効な臨書です。建築のようです。

培ってくれたもの_f0389753_15065639.jpeg
使い尽くした越塚、玉川堂の筆と、笹川文林堂から試される筆


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by sumiasobihito | 2020-04-06 15:19 | Trackback | Comments(0)

生きている墨の美しさ、生かされていることの有難さ。表現者としての記録


by sumiasobihito桃蹊
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