描くことと、日常と。
2020年 03月 30日
日々は、楽しくても、悲しくても刻々と過ぎていきます。私にとって不意にやってくる言霊は、心動かされる不思議な物語が描く
墨色の原動力になっています。
今年は静かに散りゆく桜を眺めつつ、いつもと変わらない奈良の独り歩きをしながら三月がゆきます。
その刹那に過ぎ行く時の四六時中をもちろん描いているわけでもありませんし、描くことだけを考えているわけでもないわけですが、
なぜか何をしていても一つにつながるといいますか、同じ一つに帰ってくる気がします。
アンテナはいつも同じところに繋がっていると言ったらいいでしょか。何処にいても。
かつて恩師今井凌雪先生は、書を建築にたとえ、材料を吟味し、構図を考え、安易な、簡単に風で吹き飛んでしまうようなものを作ってはならない、とおっしゃいました。
何にでも通じ、準備段取りを怠るな、ということやと私なりに考えています。
作品制作、ライブも含めて、何を描くか?
それは、どう描き、どう伝えるか?
その段取りに費やす時間には個人差はありますが、納得のいくまで準備はするべきやと考えます。未消化のまま見切り発車したものは大概うまくいかないものです。
用意周到に準備してさえ、結果は段取り通りにはいかないものです。物語のシナリオは自分の思うようにならないようです。
さて、日々描きたくてたまらない衝動に襲われますが、機が熟さないこともあります。
そんな時は、準備段取りの時とあっさり諦めるのが賢明と考えます。ただぼんやり海を眺めるだけで、良いも悪いもなくどうでもいいような気持ちになるものです。静かに新しい風と波を待つのは退屈ではありません。
そしてまた性懲りも無く描きたくなると何をするかといいますと、変わらず、今まで通り描きたい言葉を、文字を調べます。
調べているうちに出典や歴史の背景や、時にはその場所のことが気になり赴くこともあります。
寄り道ばかりしながら物語はさらに深まります。
音楽ライブの時も、また書き込んでいく制作過程においても
草稿(私は設計図と言っていますが)は重要です。
私はまず縮小サイズの紙を用意して鉛筆で作ります。最初から墨で描くと出来上がった気になってしまうからです。鉛筆で作ると余分なものがありませんから土台をしっかり見極めることができます。
それから墨入れをして縮小版を作ります。
一割は天から降ってくるような音に従うと言った感じです。
通常の制作で書き込んでいく時は、最初の感動を無くさないように同じ作品を一度に5回以上試みることは避けます。
よって、3、4作品を、日に4、5回試みることを繰り返します。
それ以外の時は、臨書。古典に帰って自分をなくします。
そして奈良の自然の中を歩く、
言葉を感知する、
文字を調べる、
寄り道、回り道のような心象の風景を求め続けています。
自然から得ることは限りがありません。
言葉の助けを借り、文字を借りて描く自然風景は通訳なしに伝わればいいなあ、と考えます。
満ち溢れる美(美とは、綺麗なものだけでなく、ゾクッとするような一瞬目を背けるものも含めます)は、表現し続ける原動力なのです。今日も小雨に桜を想い、家族をおもい、大切な親しい人たちをおもいながら、歩いて帰って描きたい気持ちを膨らませている夜には、誇らしげに咲く満開の花より胴吹きの小さな花やったりします。
今年は桃の名をいただいたことを自身に刻み紅い桃の苗木を植えました。