桃のこと、書の究極は人物に歸するの事
2020年 03月 23日
今年は梅が終わるか、否 かのうちに、桜も桃も杏も木瓜も咲き始めました。
桃といえば桃色なのでしょうが、今年は白だけが咲きました。
人みな優し桃の花」 (高野 素十)
桃がつく名を老師からいただきましたので、この時期には思い出すこの句を部屋に飾ります。
「萬葉集」には、
「春の苑紅にほふ桃の花
下照る道に出て立つをとめ」
とありますように、
桃が健康的な乙女の姿とまばゆい命を表しているように感じます。
また「古事記」
イザナギ尊が黄泉の国にイザナミ尊を訪ねたときのお話です。
イザナミ尊の体から出た八柱の雷神と黄泉の国の1500人の軍隊に追われ、十拳剣(とつかのつるぎ)を振り振り、 この世と死者の境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)まで辿りつくことが出来た時に
黄泉比良坂に成っていた桃の実を三つ追っ手に打ち付けたところ
追っ手は黄泉の国にと逃げ帰りました。 そして、
イザナギ尊は、その桃に対して、
「そなたは、私を助けたくれた様に、
葦原中国(あしはらなかつこく)に住む全ての人々が、 苦しい目にあって思い患っているとき、
私と同じように助けなさい。」と告げ、
桃の実に意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)という名を授けたと」とあります。
桃の強さと優しさが小径(蹊)を作る、そんな心のこもった生き方をせよ、と今も言われているように思わずにはいられない今年の春。
「桃の実は気高くて、瑞気があって、いくらか淫靡でやや放従で、手に持ってゐると身動きをする。のりうつられそうな気はいがする」と言っています。
光太郎といえば
「書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。
力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。
惡筆は大抵餘計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。
良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。
書道興つて惡筆天下に滿ちるの觀があるので自戒のため此を書きつけて置く」
(高村光太郎「書について」1939年7月稿)
を二十代の頃から繰り返し読むたびに、想われるのは老師の書です。
たくさん書かれた書を訪れた方たちにどんどん好きなように持たせてくださいました。
これも布教やからと。
光太郎の
「書の究極は人物に歸する」
これからも、心に留めておきたいと思う鎌倉にむかう電車にて