二足の草鞋を履く ALIVE
2019年 10月 01日
二足のわらじを履く
いつも足袋暮らしの、わたしにとっては実は
二足の草鞋を履いているわけではない、と・・・
わたしについて記しました。
そもそもこの「二足の草鞋を履く」ということわざは、「異なる性質を持つ2つの仕事を兼業すること」を意味します。その「二足の草鞋を履く」ということわざは、ばくち打ちが別のばくち打ちを取り締まる仕事を兼ねていたことから生まれたそうです。
一人の人間が二足の草鞋を履くことはできないので、両立しないものをやる様を表現する言葉として使われるようになりました。
最近では「二足のわらじ」というと、サラリーマンとスポーツ選手、弁護士と料理人、作家と歌手など意外性?のある組み合わせに対してポジティブに使われるケースが多く聞かれるようになりました。
しかし悪い意味で使われる時、
本来ひとところに一所懸命になる日本人の美徳と異なり、両方の仕事が中途半端になることを指しています。どちらかといえばそんなあまりよくない方の考えにとらわれる私は、やはり「二足の草鞋を履く」という言葉に少々後ろめたさもあり、二つの別の名刺を使っています。一枚に両方の情報を書けばよいわけですが、どちらも欠かせない生きる姿としてのささやかな主張かもしれません。
かつて老師は「名刺だけでは何も伝わらないから、名刺は使わない。」とおっしゃっていらしたなあ・・・苦笑
私は嫁として、妻として、母として、そして現在宿屋の主人であり、表現者であります。
「仕事が暮らし、暮らしが仕事」の日々。
近年色々なジャンルの方と共演する書のライブの機会が増えました。
狂言の舞台もライブで、ご縁いただいての趣味。お稽古から学ぶ伝統芸能や日本の美などなど、興味は尽きません。糧になりますからそこに費やすことに無駄なものは何もありません。
観客がいらっしゃる、という観点からは宿屋の主人もまた日日ライブ。お客様に喜んでいただけることがしあわせであり、働く喜びであるわけです。ですから、無理をしないように、その場限りの受けを狙ったりしないように心がけています。
書のライブもまた 肝心なのは書なので、自分の心が整うまで描かなくても集中していけるようになりました。
それは、待ってくださる観客と共演する方を信頼できるということを肌で感じるようになったからです。奇をてらわない、一所懸命に、
共に書き直しができない物語を紡いでいく、というそれだけのようにおもいます。
その物語のシナリオを描くためには準備と段取りが大切で、いつ何を投げられても投げ返せるような自分を深めておく準備、
思わぬことが起こっても柔軟に対応可能な段取りを考えておくべきなのでしょうね。
とは言いながら、
生きているだけで精一杯で、笑顔が消え、後ろばかり振り向いて落ち込むことの方が多いのですが、
心に言い聞かせて。前を向いて。
自分探し。
出会いの瞬間、瞬間、ライブやと感じます。有難いなあ、と思います。
新しい物語に救われながら、おもいもよらない自分を見つけています。
それは、
それは
わたしは、祈りの地にあって
穏やかに
ワクワクと生かされております。