鹿踊りだぢゃい
2019年 09月 21日
鹿踊りの旅
空也上人は時杉庵の周囲に戯れ遊ぶ野鹿を殊の外可愛がって育てていたそうです。
鹿は上人になつきそばを離れませんでしたが、ある日狩人の矢に射殺されてしまいました。
上人は哀れに思いこれを埋葬し、その皮を村人に着せて鹿の遊び戯れる様を躍らせて冥福を祈ったのが、「鹿踊り」の始めとも伝えられています。
後に武蔵国豊田村の、歌や踊りをよくする清左衛門という人が本格的な踊りとして江戸神田明神の社前に奉納した時、背に春日をいただき(春日の前立ともいう)神社や寺院の前で踊るようになったと伝えられているそうです。
全身に赤星九曜の紋を染めた幕を覆い、頭には角頭厳しく、背には「春日」と染め抜いたナガシを垂れ、8尺のササラは秋の薄尾巻を表し、8人人組で太鼓を叩きながら踊ります。厳呼と響く太鼓のリズムに一糸乱れぬ群舞は、花巻の古典芸術として貴重な文化遺産になっています。
県内各地で踊られる鹿踊は、踊りの様式から大別して県南地方の太鼓踊り系、県北地方の幕踊り系に分けられます。太鼓踊り系には囃子がなく、太鼓中心で、3メートル前後の長いササラを背負い、腹には太鼓を下げ、各踊り手が唄をうたい太鼓を打ち鳴らしながら踊るのが特徴です。
この鹿踊、花巻まつりと母の故郷、土沢まつりに行きたいと願ったきっかけは宮澤賢治の詩「高原」であり、「鹿踊りのはじまり」でした。
花巻まつりは、花巻市にある鳥谷ヶ崎神社の秋ののお祭り。毎年第2金曜から日曜にかけて開催されます
花巻まつりでは地元の伝統芸能である「鹿踊」や、「神楽権現舞」が披露されます。
風流山車
花巻まつりの呼び物は、何といっても各町内から繰り出す山車にあります。その始まりは、花巻開町の祖・北松斎公の時代にさかのぼります。当初は唐竹で大きな鯨をつくり、紙を張って鍋を塗り、これを車に乗せて曳き歩いたといいます。その後、京都の「やかた」に似たものを出すようになり、明治時代にその豪華さの絶頂に達しました。この当時の屋形は高さ13メートルもあり、下から見たとき見映えするものとするため、格段の手法を必要とし、祭師たちの手腕が大いに問われたといいます。
屋形様式の山車も、大正の末期になり、街に電線が張られるようになってからは、現在のかたちの風流山車に移行してきました。その風流山車の組み方は、活花(生花)を基本としており、岩山の上部に桜の花をしんとして人形と四季の花を飾りつけ、その下の周りには「重ね波」という波をつける順で、祭師によって飾りつけ、仕上げられるものであります。古来、花巻の祭師は格段の技能を有していたといわれ、ほとんど活花の心得があって教示していたと言い伝えられているそうです。
114基もの神輿が一つの会場で披露されるのは、世界記録にも認定されています。市民総参加の祭りは各職場や町内の子供会の参加によるものです。
神楽権現舞
花巻地方の神楽のほとんどは、北上山系の最高峰・早池峰山の南麓に伝承される山伏神楽の早池峰岳神楽が主です。いま花巻市内の神楽保存会のうち権現舞が保存伝承されている団体は60前後ありますが、この地方の郷土芸能としては最高の伝承数で、庶民の間の生活に密着した郷土芸能として伝承されております。
神楽の歴史は古く、その多くは修験者の山伏集団によって各地に伝承されたものといわれ、遠い旅をしてきた修験者の芸が土着して、豊作、無病息災、家内安全、地域繁栄等を願う祭事に舞う習わしとなり、今日各地域に継承されております。
花巻ばやし
京都祇園囃子の流れを汲むといわれ、大太鼓・小太鼓・笛・三味線で構成されております。大太鼓と小太鼓の調子を相互に出し、それに笛・三味線が調和して祇園調を漂わせ、深い情感と優雅な気品を備えております。
平成4年から、花巻開町400年を記念し制作した新花巻音頭「イーハトーブは夢の郷」をパレードの最後を飾って踊っています。作詞・たかたかし、作曲・市川昭介、歌・新沼謙治、振付・花柳糸之という豪華スタッフで、だれでも歌って踊れる音頭です
「高原」(昨年訪れた種山ケ原)
海だべがど おら おもたれば
やつぱり光る山だたぢやい
ホウ
髪毛風吹けば
鹿踊りだぢやい
「鹿踊のはじまり」より
この時鹿は皆首を垂れてゐましたが、
六番目がにわかに首をりんとあげてうたひました。
「ぎんがぎがの
すすぎの底でひっそりと
咲ぐうめばぢの
愛どしおえどし」
鹿はそれからみんな、短ぐ笛のやうに鳴いて跳ね上がり
はげしくはげしくまはりました。
(ウメバチソウは高さ20センチほど茎の先端に白い花を一個つけます。上から見ると五弁の花の形が梅鉢紋の文様に似ていることからこの名がついたと言われます。
童話「鹿踊のはじまり」では、六頭の鹿たちが太陽やススキ、ハンノキに続いてウメバチソウの美しさ、愛らしさをたたえる歌を歌います。
「夕日を浴び火のように燃えるススキの底(地面)でひっそり咲くウメバチソウは、可愛らしい可愛らしい🎶」)
宮澤賢治 絶筆
方十里
稗貫のみかも
稲熟れて
み祭三日
そらはれわたる
1933年9月17、18、19日
20朝容態急変
よく21日午後1時半賢治さんは亡くなりました。
三日間鹿踊りを含めるお祭りを堪能し、宮澤賢治所縁の地を今年も訪ねることができ、お墓まいりも無事に済ませ、懐かしい方達との再会に心温めた私たちの旅の最後に、新花巻駅に着いた時、実家から電話が入り
「ルート(√)は、間に合わなかったよ。今朝・・・」と、
愛犬ルートの死、ルートは亡くなった主人が見つけた子で奈良で8年、埼玉の実家で5年過ごしました。旅が全て終わるまで、頑張ったのかなあ、と。駅で言葉を失いました。13歳でした。