近年は、特に、どうしても欲しいものはなくて、なんだか遠い言葉のように懐かしく思い出すのですが、

手に入れなければ、わからない、とあの頃思ったからでした。
李朝の白磁、古伊万里が何より好きで手に届くものを集めたり、
茶の稽古の場で小堀先生に見せていただいた安南物ものにも興味を持ち、安南物に心が向かい、当時民芸に興味を持っていたことと相まって、日本の染付に夢中になったこともありました。
物欲とは不思議です。
欲というよりも一心に想い続けている意識は、目の前に引っかかってくるといいますか、目につき耳に聴き、情報が入ってくるわけです。
それを好奇心のアンテナ、というのかもしれません。
それは自分の掌で味わいたいとおもったりもしたわけです。
もちろん、学生の身では、まず墨、紙、筆にお金がかかりますから、求めることは難しいわけですが、
「書を志すものは、書を表現するために必要な背景を養わねばならない。」大学の先生の言葉をそのままに、広く、やがて深く一つを掘り下げていく過程として、色々な物、事に首を突っ込んだ二十代。
そんな時に、私を正気にしてくれた言葉が
「もの買ってくる、自分買ってくる」でした。
自分を買う?
「もし、欲しいのはこれではないけれど、仕方なく買った、だから自分買ってくるには当たらない」と、おっしゃる方もあるかもしれませんが、寛二郎は、
「仕方なく買ったという、自分」を買ったのだと言いました。
食べたいもの、着たいもの、住みたい空間。
皆全て、「もの買ってくる、自分買ってくる」
さて、有機のものはいつかなくなります。
形残る「もの」も、いつかはなくなる「もの」、なのですが。
そこまでには長い長い時間がかかるものと、直ぐになくなり消えるものがあります。
最近私は、「ものたち」を人へ、人へと 留めずに送り出す終活なるものを始めましたが、この春は、なぜか多くのご主人を離れた『もの』たちを頂く(預かる)事の方が多いのです。自分が捨てれば捨てるほど入ってくるといった感さえします。
どなたにもお裾分けできない、
私がいただかなくてはならない「ものたち」でしょうか?
有難いなあ、とその方をおもいながら
大事にされてきた墨、硯を使い
100冊以上の「季刊銀花」のページを開き
「大正時代の雛人形」などを人の目の触れるところに。
私自身が前向きに終活、つまり
シンプルに身軽に生きようと始めたこの春
捨てれば捨てるほど、新たにやってくる
また、おもいもよらない突然の身内の遺品達は、着物も宝石も私には無縁の長物で直ぐに、ご縁ある人にもらっていただきました。
遡っても色々なものをいただいてきましたが、
不思議と「ものたち」が行ったり来たりの
今年の春の不思議な気持ちを記しておきます。
自分の作品の行く末知らず・・・・
30歳ころでしたか? 私の場合はミーハーでして、確か別冊太陽をみて骨董に興味を持ちました。
父は中国物や李朝が好きだったようです。
注:私は、これらには全く興味がなく、和骨董ですが。
仕事関係で使わなくなった設備は終活?しました。
しかし、未だに伊万里や指物は増えます。
記事を拝見して、お恥ずかしい限りです。