兆し、の場合

不器用さは変わらないまま、掴みかけては儚く消えるものは、いとおしく心震えるのです。
作品は、描かれたものだけが
語ります。
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「兆し」を描いていたとき
自身の意識をよそに、舞い降りてきた鳥が、ありました。
思わず最初に滴った一雫を否定して、新しい紙に替えていたら、
この作品は無いのです。
おそらく、感じるまま不可視の兆しを描いていたのです。
あっ、とおもった瞬間を否定せず、面白く受け止め次に生かしたいと 迷わず続けた時のお話。

鳥霊が囁いたことに気づいたのは
筆を置いてからでした。

人と同じだけ書は いとおしい。


墨色。墨という千年以上も残る有機のものが偶然ではない、不可思議な色を観せてくれます。「人は書のようである。」
と思えるようにすらなったきっかけです。
そう、教えてくださった方の言葉を疑問に思いながら咀嚼している結果に違いないのですがね、・・

人としての、言葉を有し、伝える術の墨色と線は私の中でいつか景色になりました。
面白いのは、一度限りの消せない線の思うようにいかないところなのかもしれません。
否定からではなく、全て肯定してから、交流し、化学変化がまた新しいものを生みます。
消せない墨痕の一本一本を受け止めながらでなくては

化学変化は、起きません。

紙ならば、また新しいものの用意もできましょう、
仕切り直して新しい舞台を用意することが、書においては私にできますが、

人の物語はやり直しはできません。化学変化の連続です。ですから書においても真剣勝負二度とない舞台で描ききりたい、と思うのです。


それはさらに深く難しいけれど、わたしの体の中に表現したい景色(心象の風景)は、いつも湧き出てきます。失った足りない何かを埋めるように、描かずにはいられません。
景色は刻々と変わるその瞬間のものであるように。

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by sumiasobihito | 2019-01-27 19:49 | Trackback | Comments(0)

生きている墨の美しさ、生かされていることの有難さ。表現者としての記録


by sumiasobihito桃蹊
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