氷室神社御造替一隻六扇(六曲)屏風の物語
2018年 09月 01日
氷室神社ご造替奉納屏風の制作を終え、屏風として描いた作品の表具の仕上がりを待つばかりの今があります。
少し、燃え尽き何とやらを過ごし、奈良の愛する場所を目的もなく呼吸を調えに歩きます。
東に向かえば、いつもそこに御山が目に飛び込んできます。
私は、私の表現は書を書くのではなく、描くのだと思っています。心象の風景に言霊を響かせたいという理想が私には常にあります。
ですから、こうした広がりのある奥の深い奈良の景色は、創作の糧になります。
六曲の景色は、一枚パネルとは趣の異なるものですので、曲と空間が伝える意味を問い続けました。
氷室神社の由来や宮司様の想い、
春日野や東の御山(蓋山)の景色を、心象の風景として書で描きたいと考え続けました。
そして日の出と御山の稜線は、私の中にいつもあって景色の核になったのでした。
「誰にでもわかるもの(これも、難しいですね)」
と、いう
メ ッ セ ー ジ と、ともに、始まりました。
その、横に視線を移していく時間は、縦に移す時間とは異なるものと感じています。
お日様、落日
御山から登った太陽が沈むという
かわらないこと。
●構想の変遷
✏︎構想3 ........六扇の物語を作る 1春(兆) 2日(日の出)3夏(森)4秋(羅)5冬(万象)6寧楽✏︎
✏︎構想4.........物語変更 1春(兆し)2夏(森)3秋(羅)4冬(万象)5暁(日の出)6平和(寧楽百首 笠山霞)
●構想から物語へ
春(兆し) 不可視のものの気配を運ぶ鳥霊
秋(羅) 実りの恵みは取りこぼすことなく網羅する山
冬(万象) 凍てる大地に、ありとあらゆる全てのものが寡黙に命を育む
暁(日の出) 春夏秋冬日は昇り来て巡る命
平和(寧楽 笠山霞) かわりなく暁に霞む平和な営み
燦々謄光数抹霞 暁天染出翆峰花
虹錦須臾風吹去 散為點々幾多鴉
(燦々(さんさん)たる謄光(とうこう)
数抹(すうまつ)の霞(か)
暁天 染め出だす 翆峰の花
虹錦 須臾(しゅゆ)にして 風 吹き去り
散じて 點々たり 幾多の鴉)
制作の始まりは、まず文字調べから始まります。
書は文字を描くものですから誤字は許されません。
間違った形や意味をそのままにして描けば、間違った情報を伝えてしまうことになると考えます。
(最初は「森羅万象命煌めく」と言の葉を選びました。
しかし最終的には、抽象的なものも加えて「森羅万象」としました。)
発句経に曰
森羅及萬象 法之所印 亦不爲 被諸數故 佛教祖訓 若合符節審細究取 到這裏且問諸仁者 萬法歸 歸何處 速道 速道
「森羅」は、森が羅列していると書くため、木々が限りなく生い茂っていることを表しています
「万象」は、あらゆるものを指す万物という言葉に、あらゆる現象を合わせた言葉です。
「萬」は、蠍の象形。本来表していたのはサソリではない、という説もあるものの、サソリに似た虫であったことには間違いがないでしょう。古代中国では、その虫の名前が、数字の10000を表すことばと発音が似ていたため、「萬」は10000の意味で用いられるようになりました。こういう用法のことを仮借(かしゃ)と言います。
「象」は、長い鼻の象の象形 ゾウ、かたち、かたどる、典、道理の意味です。普賢菩薩は象にまたがり、文殊菩薩は獅子にまたがっている絵や彫刻があります。獅子は仏の智慧を、象は仏の慈悲を表していると言われます。
絶えることのない広い世界を示す「森羅」の中に存在する、形あるすべての物と、起こりうる全ての現象である「万象」が合わさって生み出された言葉、森羅万象とは、「この世に存在する全ての物や現象」を意味します。人間が想像可能なありとあらゆる事象のことを示す言葉です
● 墨、紙 について
墨 は奈良墨、唐墨 合計六種類
御蓋山を象徴する薄墨は、松煙墨を主に和墨三種、唐墨三種
森羅万象及び寧楽百首の濃き色は、胡麻油煙墨を主に和墨二種、唐墨二種
摩り方は硯を変えるなどは勿論、濃度、宿墨なども混ぜてつくりました。今までに頂いた貴重な墨など私が集めてきた中から、古いものを選びました。
紙は、笹川文林堂さんに今回の御造替のことをお話しし、選び探していただきました。
質の良い古い宣紙は、もうこれしかないからと、おっしゃって全紙50枚を分けていただきました。
縮小屏風試作
屏風全体に淡く強く東の御山の稜線を描きいれる
屏風について
屏風制作は笹川文林堂さんに依頼。時間をかけて丹念に屏風制作に必要な紙、部材を選ばれたと聞きました。
基本的な構造は矩形の木枠の骨格に用紙、用布を貼ったもので、この細長いパネルを一扇といい、向かって右から一扇、二扇、と数えます。
これを接続したものが屏風の一単位、一隻(一畳、一帖)です。
かつては屏風側から見て右側を右隻、左側を左隻と呼びましたが、近年は向かって右側を右隻、左側の屏風を左隻と呼ぶ傾向にあります。
14世紀前半に二隻(一双)を単位とする六曲一双形式が定型となりました。江戸時代に入ると、二曲や八曲の屏風も現れるようになります。