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表現 (大阪編集教室そして それから)

書の歴史や理論、伴う実技の講義は行なっているものの、
この度は、文章表現される方たちに、お話をすることになりました。

さて、何をお伝えしたら良いものやら・・・

例えばこんな授業をお願いします。という幾つかのリクエストの中に
「表現的な部分」についてお話しください。
とあり、その周辺をあらためてわたし自身掘り下げてみたいと思いました。

まずは、書の定義から。
これはなんら難しことではなく
ただ墨で「文字を書く」ということです。故に書は万人の芸術なのです。
文字を使うのが大前提であり、文字を使わなければ、それは墨象といい、抽象的な世界になります。わたしは近年その墨象と文字が溶け合うような(心象の風景)世界を描きたいと強く思うようになりました。不可視(不可思)の世界は、暮らしの中で見つけることができます。
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そこに気づくきっかけは、磨る墨の美しさに他ありません。
「生と死を墨の濃淡に重ねる」ようになったのもまた一元的な原子レベルのその密度の濃淡に存在する意味を見つけたからでした。
「物もまた原子の濃淡でしかない。 あなたもわたしもなく、そこにとらわれる事もない、一元的な世界こそが真理で、わたし達は錯覚を起こしている」(柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』より)
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般若心経を詩で表した書物、挿絵は堀文子


わたしはこの言葉に救われ、書と重ねることで今も救われ続けていて
それがわたしの「墨表現」なのです

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表現する中でこだわりは何かと問われるならば、
それは伝える言葉であり、その言葉をより明確に伝えるための
墨色と線と、余白、ということになります。
墨色は磨り方によって光の屈折が見せる色が変化します。同じ色は二度と表せません。
墨色は、わたしにとっての心。
線は、といえば表情、もしくは意識とでも言いましょうか?
そして、文字の中の空間も含め、
余白は、息遣い(音や風の流れともいえます。時には匂いまでも思い起こすものかもしれません)
表現する上で難しいのは、そういった諸々の条件を整え段取りしてワンストロークで描かなくてはならないところです。
一度きり、やり直しができません。
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思い通りになることなどは滅多にありませんが、表現の幅を広げ
想いを深く相手に届けるためには技術が必要です。身につけた手駒が多ければ多いほど表現の世界は深まります。
よって日頃から古典に学び臨書をします。臨書は長い年月を経て現代に残された普遍の何かがありますから、謙虚に、真摯に自らを無くして古人に形も心も近付こうとすると行為です。
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また、高村光太郎の言葉 『美について』より「書について」一節
「書を究めるということは造形意識を養うことであり、この世の造形美に目を開くことである。
書がわかれば、絵画も彫刻も建築も分かるはずであり、文章の構成、生活の機構にも自ずから通じてこなければならない。
書だけ分かって他のものは分からないというのは、わかり方が浅いに他なるまい。
書がその人となりを語るという事も、その人の人としてのわかり方が書に反映するからであろう。」と。
この文章を読むたびに今井凌雪先生の言葉を同時に思い出します。
「書を甘くみたらダメですよ、そんな勝手な創作をしていたらアカン。」と常々おっしゃっていらっしゃいました。
万人の表現方法である書は、文字を知る人は誰でもできるわけですが、その誰にでもできるものを、誰もできないほど深める。そのために文字の意味や成り立ちを調べ確認する必要があるのです。

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さて、表現者(わたし)は罪深い人間です。
何によらず、書に関わらず「表現者」という人間は、何にも代え難い命の瞬間も表現しようとする意識が働きます。己が気づいていようといまいとです。
このようにわがままで罪深いわたしを表現以外に救ってくれるのは、
信仰や宗教であると感じます。

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『神様と仏様が織りなす美と光と信仰に満ち溢れる世界』春日大社のすべて展の言葉に表される日本独特の世界観。
ここ奈良にあって暮らしと表現活動ができることは、わたしにとって心の拠り所を頂き、慈悲に救われ、この上ない幸せだと感じながら今日も自己表現の中にいます。



わたしにとっての書は、祈りであり、救いなのです。
祈っても、祈っても思う結果を得られない。それでも、やはり胸に手を合わせ、祈っています。
祈りとは、その手を合わせている瞬間の心の在り方と、そのあとどう生きるか、ではないでしょうか?一所懸命な生き方を見出すことではないでしょうか?
蒔いた種の実りを祈るように、作品を作っているのです。


by sumiasobihito | 2018-07-16 02:24

生きている墨の美しさ、生かされていることの有難さ。表現者としての記録


by sumiasobihito桃蹊
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