老師と桃蹊の名について

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高村光太郎 「桃」(個人蔵)

「桃の実は気高くて、瑞気があって、いくらか淫靡でやや放縦で、手に持っていると身動きする。のりうつられそうな気配がする。」と、光太郎は言いました。

桃は、可憐な花、美しい果実の樹、その樹ではなく、樹下の蹊(こみち)に這いつくばっているのが、ちょうどよかろう、と、
老師はかつて笑ったのでした。
「桃蹊」の名は、
桃や季は、立派すぎるから、お前はこみち(蹊)である、ということなのです。
その名を頂いて私は書を描いています。

🍑司馬遷『史記』「李将軍列伝」より
「桃李不言 下自成蹊」
桃李もの言わざれど 下自ら蹊を成す
(桃や季は何も言わないが、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹下の下には自然と蹊が出来るという、李広将軍を讃えた故事)
🍑高村光太郎、母の故郷花巻で、光太郎の書に涙し、桃の実に心震えたのでした。

さて、私が老師と出会ったのは、18歳の夏、居士林での学生接心の時でした。
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初めての「禅」との出逢いが、老師との出逢いでした。
必要最低限の言葉のみで、作法通りに過ごす居士林の時間です。
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女性は、禅子さんと言い、禅子寮に寝起きし、坐禅や作務は居士(男性)と同じようにし、当時の管長朝比奈宗源老師と師家の足立大進老師の提唱をお聴きしたのでした。
初めての学生接心以来、老師は口を開けば、
「早く嫁に行け、禅寺には来んでよい」と言われましたが、大学の4年間、私は学生接心や土日坐禅会に参加し続けたのでした。
「自己とは何か?」を問われた若き頃でありました。
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管長になられた時には黄梅院にいらした老師が傳宗庵に移られて、また現在臥竜庵にあっても機会を見つけてはお訪ねしています。お会いすれば悪口ばかりおっしゃいますが折に触れ叱られたり、励まして頂いたり、ご心配頂いたりと、お心にかけて頂き有り難いばかりです。
私が奈良に来てからは、お手紙のやりとりが多くなりました。老師の字は読みやすい温かな文字で、朝比奈老師の筆致によく似ていらっしゃいます。時に禅語や、老師の俳句などいつもみじかな数行の文ですが、心にしみる事ばかりです。
これこそを「書」というのであろうと想うのです。
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老師の著書は岩波文庫の「禅林句集」をはじめたくさんございますが、その中で「おかげさまいっぱい」海竜社刊に
私の若い頃のこと、老師との出逢いから主人を亡くした時のことが書かれています。

私の個展に幾度かお越しになったある日のこと、
「キチガイやな」という、老師の、初めてのお褒めの言葉をいただきました。「キチガイ」とは!私にとっては正直嬉しい事なのです。

与謝野晶子歌「劫初より作り営む殿堂に われも黄金の釘ひとつうつ」の作品は居士林の学生接心初めての折、老師の提唱を聴き、忘れられないお言葉を描きました。
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奈良にはお話をしていただくために二度ほどお願いをいたしました。快くお引き受け頂き、奈良をご案内しながらお話をする時間は、父とでも歩くような親しみを噛みしめる有り難いことでございました。

🍑劫初より つくりいとなむ 殿堂に われも黄金の釘一つ打つ        
                  与謝野晶子
(ごうしょより つくりいとなむ でんどうに われも こがねの くぎひとつうつ)
はるか昔の、世の初めから、人類が造り営んで来た美の世界、芸術の立派な建物に
いま、自分も、一本ではあるが、輝く朽ちない黄金の釘を打つのである。
  歌集「草の夢」
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さあ、 肝心の禅については 私はゼンゼンですが、寺に来るな嫁に行けと言われた学生時代から現在、行きたくても頻繁に行くことができなくなって感じるのは、寺で坐禅をするだけが私の禅ではなく、暮らしそのものの中にその道もあるという事です。
日々の暮らしの中の智慧や書における発見は、些細な事であっても禅の影響を受けているものなのです。

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Serendipity 天意



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by sumiasobihito | 2017-11-27 21:23 | Comments(0)

生きている墨の美しさ、生かされていることの有難さ。表現者としての記録


by sumiasobihito桃蹊
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